2017年05月11日

宇野港の繁栄

平成21年(2009)4月12日、宇野港築港100周年に一般開放された宇野港メモリアルパークに宇野港築港の立役者・檜垣直右の銅像がある。元々は、昭和55年(1980)に彫刻家・佐山道知さんが制作、宇野港西側にある緑地に設置された。

檜垣は、明治35年(1902)2月に第8代岡山県知事に就任した人である。着任以来、宇野港築港が県政100年の発展を画する重要な事業であることに着目。明治38年(1905)11月の県議会に提案したが、日露戦争後の県財政の疲弊を理由に否決されてしまう。それでも、翌年1月、原業執行を告示し、発案以来8年目にして、明治42年(1909)9月25日、宇野港は竣工する。ついで、翌年6月には、宇野線と宇高航路が開通。さらに昭和5年(1930)2月には、岡山県最初の開港に指定されるなど、玉野市が形成される大きな要因となった(顕彰の言葉を要約)。

宇野港築港が、諮問案という形で正式に県議会に提出されたのは、高崎親章が知事だった明治32年(1899)11月。この時の岡山県議会は、総工費79万5千円余りの予算を満場一致で可決したものの、次の知事・吉原三郎は、宇野港には無関心で一向に前に進まなかった。ところが、明治35年(1902)2月に赴任してきた檜垣は、明治37年(1904)に築港の一部着工を計画し、工費1万4千円余りを提案。翌年には、3カ年の継続事業として、38万8千7百余円の予算を県中北部の植林計画をあわせ、改めて提案した。しかし、日露戦争後の疲弊した経済状況の中、周辺自治体からの反対運動は激しかったようで、何度も否決されてしまう。それでも原案執行をやってのけた檜垣は、玉野市にとって忘れてはならない人だ。

因みに、宇野港が第2種重要港湾に指定されたのは、昭和4年(1929)12月28日。開港場(外国との貿易のための港)に指定されたのは、昭和5年(1930)2月7日。山陽鉄道が山陽線の岡山駅を開設したのは、明治24年(1891)3月。山陽鉄道を国有化した日本国有鉄道が、岡山から宇野まで開通させたのは、明治43年(1910)6月12日。同時に宇野、高松間の鉄道連絡船も就航して営業を始めている。

尚、隣にある基石(内務大臣・山本達雄の揮毫)は、昭和8年(1933)3月15日に行われた宇野港修築起工式で工事の安全を祈願して港内に沈奠されたもの。昭和55年(1980)5月の浚渫作業中に引き上げられ、宇野港開港50周年を機会に宇野港の繁栄と港内の安全を祈るものとしてここに定置された(玉野市史を要約転載)。

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